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今までの音楽遍歴 後編

前編はコチラ

 

ノイエブログ史上初?!の前編・後編構成となってしまいました(笑)。

前編の後書きに「高校以降の話は、また別の機会に」と書きましたが、ありがたいことにリクエストがありましたので、僭越ながら2週連続でお届けします。前編よりさらに長文になってしまいました(汗)。時間的・肉体的・金銭的に、大学時代が合唱に最も力を入れていた時期なので、どうしても長文に…。

 

高校

音楽の授業で、先生に一対一で歌唱指導をしてもらったことが印象に残っています。

それまで、合唱というか、「歌うこと」「歌い方」というものを、音楽の授業でまともに教えてもらったことはありませんでした。この時初めて「ピアノの、周りの音に合わせて歌う」という概念を知ったくらいです。それまでは、なんとなく音量やリズムを周りと合わせて、適当に音程を高低させているだけでした。ピアノに合わせてきっちり歌う、という練習を授業では一切してこなかったので、まさに「目から鱗が落ちる」思いでした。

その先生は合唱部の顧問をされており、後年、県の合唱祭の出場団体に、母校の高校とその先生の名前が掲載されているのを見て驚いたものです。

 

大学

入学した大学では、入学式で校歌(学園歌)をグリークラブが模範歌唱する、という恒例行事がありました。

最初は合唱やグリークラブには興味はなかったので特に何も感じるところもなくスルーしていたのですが、構内を歩いていた時に先輩から勧誘を受けました。先輩曰く「模範歌唱の時、ギプスをしているキミを見かけて気になってたから声をかけた」とのこと。当時、骨折をしており、結構目立つ状態だった模様。そんなこんなで部室にたむろしたりコンパに参加したりしていたらいつの間にか入部していました。

勧誘文句は「そんなに本格的に合唱ばかりしているわけでもないし、大学から合唱を始めた人が多いし、部室で遊んだりもできるし、他の大学とのつながりもできるし…」といった感じで、本格的な合唱活動をするわけでもない、という空気感でした。そういう緩さと男しかいないという気軽さが心地よかったのです。

しかし、腐ってもグリークラブ、腐っても大学公認団体。それなりにイベントはこなさなければならず、定演に向けた練習は相応に厳しさを増していき、ついていけなくなった同期たちはやめていき、最終的に同期は自分含め2名になってしまいました。

そして2回生に上がるときに、「ピアノが弾けるから」という理由で学生副指揮者にされてしまうことに。

私には「こんな音楽を作りたい」という強い思いもなく、合唱界隈の知識もうとく(例えば、多くの合唱人が知っているような『常識』の類は、あまり知らない方です。いわゆるモグリですね。楽典系の知識はまだましでしたが)、何より「目立ちたくない!」。

前任の指揮者もそういう自分を見抜いていたのか、私が指揮者をすることはあまり気乗りしなかったみたいですが、他の団員の総意が「【コエ】を指揮者にしたらいいんじゃね?」だったので、そうなっちゃいました。

しかも、本来は副指揮者は3回生、正指揮者は4回生がするものであったにもかかわらず、3回生が副指揮者を出せなかったために、2回生である私が副指揮者をすることになり、3回生、4回生と連続で正指揮者をすることになってしまいました。つまり、大学4年間のうち、後半の2年間はまともに歌うことなく、指揮者として歌わせる側ばかりしていました。それによって得られたものもありますが、歌い手としての力量形成の観点からすると、やはり指揮者をしていて満足に歌えなかった2年間は影響が大きいですね。

普通、指揮者というのは、自分からやりたいと手を挙げて、他の候補者と競い合った上でなるものだと思いますが、そういう経緯を経ずに仕方なく指揮者になってしまったので、指揮者としてのマインドレベルは低いものでした。ジョイントコンサートなどで他団の指揮者と交流を持つこともありましたが、「立っている次元」が異なるので肩身が狭く、なかなかしんどかったものです。

そんなジョイントコンサートが縁で、弊団指揮者S氏とノイエを知り、入団することになったので、人の縁は奇縁ですね。

 

社会人

色々あってなんとか就職できたものの、24時間365日の現場での交代勤務を命じられたため、練習日が休暇日と重なる日は1か月に1、2日程度となってしまいました。肉体的、精神的な余裕もなく、数年間はノイエから遠ざかっていました。

なんとか通常の勤務に異動することができ、喜んだのもつかの間、数年経ってまた交代勤務を命じられたりとか、そんな感じで休団と復帰を繰り返しつつ今日に至ります。

休団中、たまに余裕があるときは練習に顔を出していましたが、その度に団員の皆さんに温かく受け入れてもらったのが、復帰できる状態になった時に躊躇なく「復帰しよう!」と思う原動力となりました。

そんな経験を経たので、「コロナ禍でたとえ1年合唱できずとも、かつての休団期間と比べたら短いのだから耐えられる!」と強がってみたりもしましたが、そろそろ辛くなってきましたね。ノイエの過去の演奏会音源を聴くとどうしても感傷的になってしまいます。

ウィズコロナだのアフターコロナだの言われていますが、その世界においても合唱が生き残ってほしいと強く願っています。

 

by コエ


混声合唱団ノイエ・カンマー・コール