2021年になりました。しかし昨年からのコロナ禍で、合唱活動もままならない状況が続いています。
ふと自分の合唱活動を振り返ってみると、今回のように「歌いたくても、思うように歌えなかった」大きな時期が、2度あることに気づきました。
大学生活の約4年間と、転勤で関西を離れた10カ月間です。
私の合唱の始まりは小学4年生のとき。市の少年少女合唱団に入りました。
担任の先生の科目が音楽で「あなたもどう?」と誘われたこと。宇宙戦艦ヤマトのスキャットが大好きで、「私もあんなきれいな声が出せたら」と憧れたことなど、きっかけや動機はいくつかあります。音楽クラブにも入っていたし、音楽は嫌いではありませんでした。ただ「歌が好きだったから」というより、合唱ならみんなと同じスタートラインに立てると思ったのが、始めた理由です。
地方の田舎では、勉強よりスポーツができる子どもがもてはやされます。私は残念ながら運動神経が悪い。スポーツ以外でもてはやされる唯一のものがピアノでした。ピアノの上手な子はモテモテです。でも私は、小学1年生で「弾くより聞く方が好き」と投げ出していました。「やっぱり続けていれば良かった」と後悔していた頃で、他にとりえもない私は、幼いなりに生きづらさを感じていたのです。
そんな中で、歌はのびのびやれました。重なり合うハーモニーが、本当に心地よかったのです。おかげで合唱団は中学まで続け、高校の部活でも歌いました。
そして大学でも歌おうと思ったら、入った大学には合唱団がありませんでした。近所の大学の合唱団に尋ねると「他大学の学生は入れない」とのことで、作りました。新規で作ろうとすると、大学には「合唱団は前例がない」「実績がなければならない」などと抵抗されました。新しく作るのに実績などと、意味が分かりません。が、10名以上の同好会でスタートすることを条件に了承してくれました。
ところがむりやり集めた10名は、そのほとんどが未経験。練習の体を成しませんでした。なにしろ演奏会のできる団にしたいと言っても、「演奏会?なぜやらなきゃならないの?」と理解してもらえません。今まで既存の合唱団で、いかにラクをさせてもらっていたかを痛感しました。
その当時、K南大学グリークラブに入った彼は(今のダンナです)、「練習日が多い」だの「曲数が多い」だの、「先輩があれこれ言ってくる」だのと愚痴をこぼします。黙って聞いてましたが、ある日ついに爆発しました。「専用の練習場もクラブ棟もないし、野外で歌うなと言われているから、練習のたびに教室の使用許可を取らなきゃならない。曲も自分で決めなきゃならない。何をするにも初めてだし、そのたびに団員や学校と話し合い。私が動かないとみんな動かない。しかも集まらない。潰れないよう維持するだけで骨が折れる」「あんたは、自分がどれだけ恵まれているか全然わかってない。恵まれたヤツがグチるな!グチるなら、とっととやめてしまえ!」「私はあんたが羨ましいっ!!」。勢い込んで腹の底から叫んだ直後、過呼吸を起こしました。彼は自爆した私を、必死で介抱するしかありませんでした。
以来、彼は…恐れをなしたのか、一度も私の前でグチりませんでした。私も、それを機に腹が据わりました。やがて本当に合唱をしたい仲間が集まり、学内や地域でミニコンサートをやるようになって、4年生の時に東灘区民センターうはらホールで第1回定期演奏会を開きました。ようやく育った合唱団です。定期的に演奏会を開ける団になって欲しいと願いました。
2度目は、ノイエ・カンマー・コールで毎週歌えなくなった10カ月間。ノイエの選曲は、個性的で魅力的。それゆえ他の合唱団に入る気分になれないし、でも歌は歌いたいしとストレスがたまりました。その年は、出演が叶わなかったクリスマスコンサートを、客席から羨ましく眺めたものです。歌に飢えながら復帰した時は嬉しくて、はしゃいでました。どんどん吸収してやるとボイトレに通ったら、それまでより断然声が出しやすくなりました。
歌が歌える幸せや喜びは、多分だれよりも知っている私です。あの2度の出来事に比べたら、コロナ禍は私にとって脅威ではありません。歌いたくても思うように歌えないのは、私だけではありませんから。
将来再び自由に歌えるようになった時、どれだけ喜びをもって歌えるかと思うとワクワクしています。
by Ponko
混声合唱団ノイエ・カンマー・コール