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「麒麟がくる」日を

先日完結した大河ドラマ「麒麟がくる」。

毎週楽しみに見ていました。

 

明智十兵衛光秀が主人公、となった時点で、クライマックスが「本能寺の変」、しかも最後は秀吉に討たれて「三日天下」に終わることを、視聴者みんなが最初から知っている。結末がわかっているドラマをどうやって1年間引っ張るのか、と最初は思っていました。

 

いざドラマが始まってみると、緻密な作劇と俳優陣の熱演にどんどん引き込まれていきました。

とくに十兵衛と織田信長の関係性。出会いから信頼関係が醸成される過程と、終盤それが徐々に崩れていくさまが丁寧に描かれて、「こりゃ十兵衛さん本能寺乗りこんじゃうよね」と納得させられる展開に唸りました。

 

考えたら、歌舞伎やオペラや古典落語、合唱を含むクラシック音楽など多くの芸能は、基本的にお客さんが曲や内容を知っている前提で上演されます。今回の「麒麟」と同じです。おなじ演目でも、いいものもそうでないものもあります。

 

「麒麟」を観ていて、芸ごとにおいては、「この先何が起こるか」と、「どう伝えるか」は別なんだ、と改めて思い知らされました。結末はわかっていても、そこに至る過程をどう作って見せるか聴かせるかは、送り手しだいでいかようにも変わるんだな、と。寅さんが毎回失恋して旅に出ることも、スターウォーズのいたいけなアナキン少年がのちに暗黒面に落ちてダースベイダーになることも、「第九」の4楽章に歓喜の歌が待っていることも、観客はみなわかっている。その上でどう見せるか聴かせるかが勝負です。

 

同じ意味で、われわれアマチュア合唱団にとっては、本番当日の演奏の出来もさることながら、本番までに演奏を作り上げる練習の過程がそれ以上に大事だと思っています。というか、日々の練習こそが活動の中心であり、練習に区切り・ゴールを設定するために演奏会がある、と俺は考えています。

 

なんだかんだでもう1年経ちました。演奏会ができないことよりも、練習ができないことの方が厳しいなあ。家が遠かったり単身赴任してたりでフル出席できてない自分が言うのも何ですが、六甲に行けばそこには「音楽のある日常」があり、ノイエの音楽を共有できる仲間がいる。これはなにものにも替えがたいことなのを日々感じています。

 

コロナが収束しても100%以前と同じ世界には戻らないかもしれません。

でも生の音楽を作り上げる喜びは無くならないと信じて、われわれにとっての「麒麟がくる」日を待ちたいと思います。

 

by ヒロK


混声合唱団ノイエ・カンマー・コール